安冨歩__著
「生きるための論語」
という本を読んでいます。
「論語」は、
高校のときに漢文の教科書で
勉強した以来なので、
まったく覚えていませんでした。
記憶にあるのは、
子路というできの悪い弟子がいて、
孔子は彼をかわいがっていた
ということくらいです。
それで、
この本まだ途中ですが、
安富さんが最初のほうで
書かれていることが
とても深いなと感じたので
シェアしたいとなと。
論語というのは、
古典のなかでも
群を抜いた_教典ですが、
論語が投げかけているのは、
「学」ということと
「習」ということは
まったく違うんだよ
ということなんだそうです。
有名な一節に、
「学びて時に之(これ)に習う
またよろこばしからずや。」
というものがありますね。
漢文の授業で何度も
読んだので、
なかには諳んじて言えてしまう
という方も
いるかもしれませんね。
それで、
通常、これは、
学んだり、習ったりするのは
ほんとうに楽しいよね。
というふうに解釈される。
ぼくも授業でも
そう習いました。
でも、
安富さんは、
「学」と「習」では
まったく違うんだと
述べています。
では、
「学」と「習」というのは
いったい何が違うのか?
まずは、「学」から。
「学」というのは、
簡単にいうと、
他者から情報をインプットすること。
ただ、
孔子はこうも言っています。
・学んで思わざればすなわちくらし。
(学んで、考えなければ、とらわれてしまう)
・思いて学ばざればすなわちあやうし。
(考えるばかりで、学ばなければ、あやうい)
ここで「くらし」というのは、
漢字でいうと
「網」という字の右にある
「罔」で、_
これで「罔(くら)し」と読むそうです。
これは、「網」にかけられて
身動きがとれない状態のことを
意味するみたいです。
「くら(罔)い」というのは、
こころが
「とらわれて」
「がんじがらめになる」
ことをいうんだそうです。
要するに、
ただ学んでいるだけなら、
ただうのみにして
取り入れてしまっているだけで、
自分のものにはなってない
ということなんですね。
そして、
「これはこういうものなんだなと」
という「とらわれ」や
「思い込み」ができると。
「学ぶ」というのは、
それだけだと
ある意味では危険な行為だと
言えるのかもしれないですね。
・学んで思わざればすなわちくらし。
(学んで、考えなければ、とらわれてしまう)
ここでいう「思う」というのは、
「考える」ということ。
学んだら、
「自分の頭で考える」ことが
大事だということですね。
セミナーで学ぶだけでは
結果につながらないということが
ありますが、
孔子の話でいうと、
「ただ学んでいるだけで、
自分の頭で考えていないから、
結果につながらない」
ということに
なるのかもしれません。
学ぶ側の問題も
確かにありますが、
これは、売る側の責任も
大きいっておもいますね。
「あなたがうまくいっていないのは
なぜだかわかりますか?
わたしはその答えを知っています。
その答えが知りたいですか?」
という常套句が、
受け手に、
・答えがあるものとおもわせ、
・答えを求めさせて、
・思考停止にさせてしまう
大きな要因になっているように
感じるからです。
つまり、
相互に依存してるわけです。
買い手は、答えを求めているし、
売り手は、依存してもらうことで、
お金をもらうという関係ですよね。
でも、
受講者から考えることを奪ってしまったら、
「くら(罔)し」という状態になります。
うまくいかないときに、
自分で考えなくなったら、
八方塞がりになります。
そういう思考を奪う教育が
こどものころからされています。
だから、
高額セミナーに勢い勇んで参加しても
問題にぶちあたった局面で
突破できない方が出てきてしまうのかもしれません。
一般的にセミナーで成果を出す方が少ないのも、
「思」=自分の頭で考えること
これができるひとが限られているからなのかもしれません。
ということは、
方法論を学ぶよりも先に学ぶべきことが
あると思うんですよね。
それは、
「思」という力です。
つまり、
「自分の頭で考える」力です。
これって、
パソコンでいうと、
OSだとおもうんですよね。
WIndowsパソコンなら
Windows10、
iPhoneならiOSですね。
言ってみたら、
そのパソコンやスマホの
「性能」です。
今もし、
Windows XPのパソコンを
使っていたとして、
そこにいろんな重たいアプリを
入れていったら、
どうなるか。
動きが遅くなるか、
固まりますね。
高機能なアプリを動かせるだけの
性能がないからです。
思う=自分の頭で考える
というのは、
まさに人間にとってのOS
のようなもの。
方法論やノウハウは
アプリであって、
それだけを学んで取り入れても、
OSが弱かったら、
「罔(くら)し」
つまり、
八方塞がりで
ドンづまってしまうわけです。
いま、セミナー界では、
ノウハウばかりが教えられ、
自分の頭で考える力を育む方法は
ほとんど教えられていません。
安富さんは、
「習」という字の意味を
「身につくこと」と解釈
されています。
学ぶことと身につくことは違う。
ほんとうにそのとおりだなと
思うんですよね。
わかりやすくいえば、
「学」=知っている状態(知識レベル)
「習」=できる状態(能力レベル)
ということになるかもしれません。
これは、
・1つの学びを成果につなげるには、
一足飛びにはいかない
・「身につける」というプロセスがあって
はじめて成果につながる
ということを表しているのだと思います。
学んでから成果につながるまでの流れは
「学」⇒「習」⇒「成果」
ということになるということですね。
論語というのは、
孔子がいろんな題材や問答をとおして、
弟子たちに「学」と「習」ということを
伝えている教えだということなのかもしれませんね。